昭和40年07月27日 夜の御理解



 御造営に関して地形つき、地鎮祭、起工式等に対して

 今日田主丸の高芝さんが、2度目のお参りの時でした。先生今日あのお土地の進行状態を見せて頂いたんですけども、もういわゆる何ですかね、同時期にの代わりにやっていました。基礎がようやっと出来ていた訳ですね、コンクリーで固まっていく。大体あの信者一同で、あの地形つきさして頂いて出らんでもいいでしょうか。合楽の部落の方達の、金光様の地を造る時には、皆総出でああその御用さして貰うち言いよったから、と言う様な話をされておったんですけれどもね。
 まあひとつのやはり、儀式なんですね。地形固めその基礎固めと、こういう事と同時にひとつのまあ儀式でしょうが、私は今度のご造営にあたっては、ひとつもその、儀式ばったことは必要でないと思うのです。このまま親先生が、せないかんとおっしゃる、まあ一番初めの地鎮祭のことも、あんまりやかましい言うておられまして、まあなさるもんだと私は思うておった。
 ところが最近いろんな、様々な問題で、親先生がおいでられるのに、都合の悪い様な事がありまして、おいでられませんでした。だから地鎮祭も致しておりませんなければ、起工式もしてない、ね。まあ言うなら本当言うたら、もう棟上げ式であろうが何であろうが、その言わば落成式であろうがです、大体はこだわった事は、必要ではないと私は思うです。あそこの家は、ああ言うなら地形つきもしてない、地鎮祭もしてないと。
 何故かと私が思いますのは、神様の願いがここ椛目になりあそこ合楽になっておる事だからだと私は思うです。私共の願いがなっておるのじゃないです。私の願いがあそこになっておるのじゃないです。天地の親神様の願いがあそこにああなっておる。同時に私は今のそれをそう思います事はです、このご信者さん方が打って一丸になって、その事に神様のご悲願に応え奉ると立ち上がっておられるという一心がですね。
 何にも必要ではないと、ただ、ああ、その、神様の問題はご神意のままに、神様がおかげ下さろうとしておる、神様が建てようと下さっておる、そういう神ながらなご造営がです出来ますのに、ただ邪魔にならん様なおかげを頂かなければならないと言う事を、まあ思うだけです私は。はあ地鎮祭をしとらんけん、どうじゃろうかと。そんな事全然心に引っ掛る所ではない、いやむしろ、私はそれはせんほうが、神様のお喜びであるとすら、私は思うております。
 これはだからひとつのまあ恐らく、どんな小さい教会でも、これは個人の家でもそうでしょうけども、工事をすると言やあ、やはりその地鎮祭をしたり、いろんなちょっと神様事をしてからでなければ致しませんですね。起工式なら起工式というな事をしてからしか、その言わば仕事が始められんのですけれども、椛目の場合そうではない。何故って神様が先頭に立って、神様がなさっておられるのであるから。
 それを神様手ずからというわけにはいけんので、私共人間氏子の手を借り足を借りしておられるだけのこと。それに私共が応えるように、また一心にそこになっておるということはです、私はその必要を思わないのです。ね。神様の願いがなっておる時、言わば私の心の中に微塵も「ほんに地鎮祭しとらんけん」と言った様な不安と言った様な、ものがないのです、お互いの身上のこう言う事においてもそうです。
 神様の願いがそこに現れておると言う様な事であったら、どういう難儀な問題でもです、ひとつも問題に至らないです。ただその神様のその願いが本当に成就する事のために一生懸命になったらいいのです。四神様にある方がもうとにかく大変な、やはり問題だったんでしょうね、金光様どんなふうで御座いましょうかと言うて、お願いなさった時にですね、ね、本人が一心になっておる時の心配はいりませんと仰った。ね。
 本人が迂闊にしてくる、くる時に起こっておる時ならば、これは心配だとこう言うことなんだ。ね。だからどんな難儀な問題でもです、本人一心になっておる時であるならば、心配はいらん。かえって心配はいらんと言う事なんです。ね。それを不安に思うたり、または疑うたり迷うたりするから、そこんところを踏み外して、おかげを落す様な事にもなるのだけれども、ここんところを迷いもしなければ落ちもしなければです。
 ただ神様のご神意をです、悟らして頂くことに一生懸命にならして頂いたら、おかげなんです。ね。例えばなら、病気なら病気で難儀をいたしております。ね。ところがその、病気を全快のおかげを頂かして頂きたいと一心になっております。それが一心になっておる時ならば、言わば、取次ぎの方の心配はいらんということです。ただ信者が迷いだした時は心配だということ、ね。それよりも言わば不信心である時のことが危ないから、というような意味のことを仰ったということだそうですけどね。
 神様の願いがです、例えばその氏子の上にです、真実力をつけてやろう、おかげをやろうというようなです、おぼしめしがそのひとつの難儀の姿に見えておるというのであったならばです、ね、本人が一心でさえあれば問題は心配はないということです。一心ということはひとつのことを信ぜろという時なんです、ね。これは個人の場合でも同じこと。椛目の御造営の場合でもそうです、ね。
 地鎮祭もいらない、起工式もいらない。どういうこと先々なってまいりますか、まあいや、知りませんけれども。譲渡式もいらなければ落成式も実を言うたらいらないと。ただ神様のご神意のままにできたかどうかをです、恐れ恐れお伺いさして頂いて、できてないところはお詫びをさしてもらい、できておるところは御礼を申させて頂き、いよいよ神様の願いがです、このお広前に、いよいよ成就になっていくことだけを願いの祈願祭ともさして頂いたらそれでいいんだと私は思うんです、ね。
 信心は、そこんところを分からして頂いてからの信心だと、非常に楽ですね。この家は私が建てんならんと言うて、私が建てる時にはそれは地鎮祭もいるでしょう、起工式もいるでしょう。神様にお願いもいるでしょう。ね。けれども、神様が先頭に立って、例えばなら、家を建てて下さろうとするような働きがある時にはです、もう神様が建てようとなさっておるのであるから。
 そのお働きの邪魔にならんような信心を一生懸命したらよいと言う事、ね。私共の上においてもです、私共信者の上においてもそうです。はあ、神様がここを、今日この事で分からして下さろうとしておるなあと分かったらです、そのことのために一心に、むしろなっておったら不安なことはないのであり、心配な事はないという事になるのですね。     おかげ頂かにゃいけません。